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ある報道記者の手記(自殺からの生還)

自殺を図ったのは30歳になる少し前、29歳のときでした。仕事に追われ、2日寝ていませんでした。一人暮らしをしていた自宅マンションでクビをつりました。あのまま死んでいたら、今でいう「過労自殺」だったのかもしれません・・・。

小学生のときに野球を始めました。決してセンスがあったわけではありません。人一倍なのかどうかはわかりませんが、とにかくコツコツと練習を重ねてようやくレギュラーになれました。高校の野球部ではキャプテンも務めました。勉強もそうです。飛びぬけてできたわけではなく積み重ねてやってきました。大学入試も一度失敗し、浪人して大学に入りました。一番好きな言葉は、『努力に勝る天才はなし』でした。高校生のとき、朝日新聞阪神支局襲撃事件が起きました。暴力や権力に対して、ひるむことなく立ち向かう記者の姿に魅せられ、「報道記者」という仕事に就きたいと考えるようになりました。就職の時期がちょうどバブル絶頂期だったこともあって希望した今の会社に入ることができました。ざっと振り返ると、順調な人生だと思います。

どちらかというと不器用なほうです。会社に入って最初の1年は、失敗ばかりして毎日上司から怒鳴られていた気がします。自分にもし誇れるものがあるとすれば、責任感の強さ、目の前のことから逃げないこと、だと思っていました。しかし翻って言えば、これは気が小さい、ともいえるでしょう。

自殺を図ったのは入社7年目のときでした。このころには、経験を重ね、いっぱしの報道記者としていわゆる「特ダネ・独自ダネ」も取れるようになっていました。やることは毎日山のようにありました。記者という職業柄、休日や夜間・早朝の呼び出し、それに宿直勤務もあります。相手の都合にあわせて、休日や宿直勤務明けに取材することもよくあります。ひと月の残業は常に100時間を超え、午前10時から翌朝4時までなどという勤務が続き、残業が250時間を超えた月もありました。いつ呼び出しがあっても対応できるように、ポケットベルと携帯電話をビニール袋に入れて風呂場に持って入っていたことをよく覚えています。プレッシャーもあります。ニュースは「早くそして正確に」ですので1時間足らずで情報を集めて原稿を作らなければならない、また、大きな事件や事故が起きたときなどは毎日続報を打ち続けるので絶対になんらかの情報を取らなければならない、そんな状況に追い込まれます。自殺を図る1年ほど前、大きな事件が立て続けに3つ起こり、取材に奔走する毎日でした。そして体調を崩して入院しました。体力に自信があった自分がまさか体を壊すなんて考えもしませんでした。少なからずショックを受けました。そして、このころから体力的にも精神的にも「疲れ」を感じるようになりました。しかし、退院後も多いときには7件もの案件を抱え、昼夜・休日を問わず走り回っていました。酒を飲んでも全く酔わない、そしてどんなに疲れていてもなかなか眠れない、そんな日々が続きました。自殺を図る前、2日寝ていなかったと言いましたが、なかなか欲しい情報が取れず、かなり追い込まれていました。いや、知らず知らず自分を追い込んでいました。でも、これは「自分の仕事」です。「できない」なんて絶対言えません。自分がやらなければ、ことは前に進まない・・・。自分がなんとかしないと・・・。「逃げたい。」そう考えました。疲れていました。そう思っているうちにふっと、「死んだら誰も自分を責めることはしないだろうし楽になれる」、そのことしか考えられなくなりました。

当時、結婚したいと思う女性がいましたが、いろいろな事情があって果たせませんでした。

父は、長年続けてきた事業が行き詰まり多額の借金を抱えていました。資金援助しました。

頭を下げる父の姿・・・。かつて野球を教えてくれた、近所の人から「星一徹」みたいと言われた厳しい父の面影はありませんでした。遣る瀬無い思いでした。自殺の直接のキッカケは「仕事」ですが、こうしたことも、もう人生を捨ててしまってもいいという思いの背景にあったのかもしれません。とにかく自分が自分であることがイヤになりました。すべてをもう一度リセットしたい、そう思いました。遺書を書きました。職場の上司や同僚への詫び、父母や兄弟への詫び、その女性に対する思いなどを書き連ねました。「お父さん、お母さん、すみません・・・。」もう十数年も使っていない「お父さん、お母さん」という言葉を繰り返しながら自宅玄関でクビをつりました。自分が情けなくて涙が出ました。

「携帯電話やポケットベルに全く反応しない。なにかあったのか。」会社から連絡を受けた実家の父が駆けつけ、クビをつった状態の自分を見つけました。病院の集中治療室に運ばれました。両親は一時医者から「あきらめてください」と言われたそうです。また、「脳に血が回っていない時間が長いので、命が助かっても植物状態になるかもしれない」とも言われたそうです。幸い、なんの障害も残りませんでした。意識が戻ったときの両親や兄弟の顔は一生忘れられません。どれだけ心配をかけたのか・・・。また、自分を見つけたとき、父はどんな思いだったのか・・・。「死ねなかったんだ」という思いが少しよぎりましたが、「自分は一人で生きているわけではなかったんだ・・・。本当にバカなことをした」という後悔の念のほうが強くこみ上げ涙があふれました。もしあのまま死んでいたら、残されたものはどんな思いを背負うことになったことか・・・。そんなことにすら思いが及ばなかったのです。

「驕り」だったのかもしれません。自分一人がすべての仕事を背負っている気になっていました。しかし、自分がいなくても仕事は前に進んでいきました。見舞ってくれる上司や同僚は、「大丈夫だから今は仕事のことは忘れてゆっくり休め」とか「早く戻ってこいよ」とか、そんな言葉をかけてくれましたが、なんとも言えない疎外感を感じる一方で、仕事に復帰すればまた自分を追い込むんじゃないか、そしてまたバカなことをしでかすんじゃないか、そんな恐怖感にも似た思いがありました。どっちにしてももう社会復帰できないかもしれない、そんな思いが入り乱れていました。

自分が入院していたのは救命救急の病棟で、重傷患者ばかりでした。自立歩行できるのは自分だけでした。病室は4人相部屋でした。自分を除いて、1人は全身大やけどで、2人は事故でそれぞれ片足を切断していました。命を救うために足を切断した人たちでした。改めて命を粗末にした自分を情けなく思いました。「自分はなんて甘ったれているんだろう」と。自分がなぜ入院しているのか、あまりにも恥ずかしくて最後まで彼らに本当のことが言えませんでした。1ヶ月の入院を経て会社に復帰しました。喉元にくっきり残ったひもの痕は、不思議とその頃には目立たなくなっていました。

退院してまもなくひとりの女性と出会いました。仕事は相変わらずでしたが、これまでのように自分一人が背負っているんだという気負いはできるだけもたないようにして、なんとか自信を取り戻しつつありました。2年の交際を経て結婚しました。32歳でした。生きていればいいことがあるといいますが、「本当にあのとき死ななくてよかった。」心からそう思いました。

家も建てました。仕事もかなり自分のペースで、自分の裁量でできるようになっていました。共稼ぎだったので家事は分担していました。忙しいながらも充実した日々でした。

そして4年半が経ちました。子どもはまだいませんでしたが、夫婦ふたりでうまくやっていけている、自分はそう思っていました。しかし、妻は違ったようです。ある日、妻が別の男性と付き合っていることがわかりました。ガラガラと音を立てて何かが崩れました。絶望しました。妻を責める気持ち、相手の男性を責める気持ち、それに、自分は妻を、家庭を本当に大事にしてきたんだろうかと自分自身を責める気持ちが入り乱れて、本当に気が狂いそうでした。

「こんな苦しみを味わうのであれば、あのとき死んでいればよかった。」あれだけ後悔し、恥ずかしい思いを味わったにもかかわらず、また、自殺することを考えました。かつて、自殺を図ったとき、あちこちの薬局を回って精神安定剤を買い求め、ビニールのひもを用意したことが鮮明に思い出されました。そしてあのときと全く同じように玄関でクビをつる準備をしました。

しかし、以前の後悔と恥ずかしさが思い出されたことに加えて、「これで死んだらあまりにもみじめじゃないか」という思いもあって、踏みとどまりました。妻とはそれから3ヵ月後に離婚しました。その傷が癒えたのかどうか、今自分でもよくわかりません。かつて自分を追い込んだのは仕事でしたが、今はがむしゃらに仕事に向き合うことで精神的な安定を保っています。皮肉なものです。

自分なんかよりももっともっと仕事などで追い込まれている方や不慮の事故で突然ご家族を失うといった大変辛い経験をしておられる方などから見れば、その程度で「死ぬ」ことを考える自分は、なんてバカでなんて甘い奴なんだという風に映るでしょう。お叱りは甘んじて受けるつもりです。しかし、敢えてこんなことを告白しているのは、自分で言うのもおかしいのですが、決して自分は挫折感を知らないわけではないし、自分でもどちらかというと「打たれ弱い」人間ではないと思えるにもかかわらず、本当にふっとした拍子に、逃げ場を失って自殺しようとしたからです。同じように何らかの理由で逃げ場を失って自ら命を絶つことを考えている人は結構多いんじゃないか、そう思えたからです。自分は幸い一命を取りとめましたが、日本では1日におよそ90人の方が自殺しています。記者である自分は伝えることが仕事です。体験を綴ることがなんとか自殺を食い止める一助になれば、そう思っています。

生きていくことは、人それぞれでしょうが、大なり小なり苦しみを伴うものだと思います。自殺を図ったあとも、大きな壁にぶつかったり、大きく躓いたりしました。大変な失敗をしてしまい、消えてなくなりたいと思ったこともあります。しかし、自分には「自殺」という選択肢はもう絶対にないのです。自分がいかに弱く情けなくても、そんな自分と向き合うしかないのです。かつて自殺を図り、意識が戻って家族の顔を見たときの後悔の念、そして大きな障害を背負っても生きていこうとする同じ病室の人たちの姿を見たときの恥ずかしさ・・・。そのことをもう一度よく考えながら、とにかく前を向いて生きてみよう、生きていこうと思っています。(〆)

 


澤登さんの自殺未遂体験ここから