うつ病と金子みすゞ


私と小鳥と鈴(作:金子みすゞ)

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。

私が体をゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

金子みすゞ展が2012年5月27日まで姫路で開催中である。
「没後50年金子みすゞ みんなちがって、みんないい」図録が2000円で販売されている。

1903年(明治36年)4月11日生まれのみすゞは本名金子テル 1930年(昭和5年)3月10日死去 自死であった。遺書があったが残っていない。残っている最後の言葉は「さみしい王女 巻末手記」にある。

巻末手記(1929年夏から秋にかけて書かれた)

できました、
できました、
かわいい詩集ができました。

我とわが身に訓うれど、
心おどらず
さみしさよ。

夏暮れ
秋もはや更けぬ、
針もつひまのわが手わざ、
ただにむなしき心地する。

誰に見しょうぞ、
我さえも、心足らわず
さみしさよ。

(ああ、ついに、
登り得ずして帰り来し、
山のすがたは
雲に消ゆ。)

とにかくに
むなしきわざと知りながら、
秋の灯の更くるまを、
ただかたむきに
書きて来し。

明日よりは、
何を書こうぞ
さみしさよ。

20歳:1923年(大正12年)雑誌「童話」9月号に(お魚)など婦人倶楽部、婦人画報、金の星にも多くの詩が掲載される。

21歳:最大の理解者西條八十渡仏し、雑誌「童話」編集から離れる。理解者と発表の場を失う

23歳:結婚(家族の生活のためか)長女ふさえ誕生

24歳:発病

25歳:夫より創作と手紙を書くことを禁じられる

26歳:遺稿清書 別居 離婚 1930年3月死去



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