自殺率という罠                              

養老孟司氏の「豊かさの中の自殺」への書評を読んで考えたこと

伊福 達彦

 日本の自殺は平成10年に突然跳ね上がった。平成9年24391人であった自殺者が32863人と135%になった。以来14年間、毎年3万人を超える日本人が自死で亡くなっている。平成18年6月自殺対策基本法が成立、同年10月施行された。

法は施行されたがなかなか実効ある対策を打てないまま今日に至った。

 ところが書評という形で「日本はけっして特異的に自殺が多い国ではない」  「むしろ自殺という点では、当たり前の、国際的には『常識的』な国といってもいい。」と主張する著名人が現れた。Cボードロ、R・エスタブレ著「豊かさの中の自殺」養父孟司評である。7月29日の毎日新聞に掲載された。自殺率が高い国はリトアニア(38.6)、ベルラーシ(35.0)ロシア(34.3)カザフスタン(29.2)スロベニア(28.1)ハンガリー(27.7)と並べてこう主張するのだ。

 自殺率とは百分率ではなく人口10万人あたりの自殺者数を意味する。10万という大きな尺度で測るため、人口2万のパラオ共和国と13億を超す中国と比較しても意味がない。人口の小さい国では自殺率は大きくなりすぎるか小さくなりすぎる。10億を超すと率は低く出る傾向がある。リトアニアは人口320万人、スロベニアは205万、ハンガリーとベルラーシは1000万弱、カザフスタンで1655万人なのだ。自殺率という尺度で日本と比較するのは適当でない。

 人口が1億人を超す国々のなかで自殺者が3万人を越す国は、中国、インド、アメリカ、ロシアと日本であるが、いずれも日本より大きな人口を持つ国である。他の1億を越す国は、インドネシア、ブラジル、パキスタン、ナイジェリア、メキシコである。これらの国の自殺率は5前後。日本の5分の一から7分の一なのだ。次回オリンピック開催国のブラジルの人口は1憶9千5百万人、自殺率は4.6。自殺者は9000人以下である。

(自死はすくないが、殺される人は年平均37000人である))

 世界の自殺大国は先進国の中では自殺率の高いロシア(34.3)と韓国(31)、自殺者が18万に越すインドと中国(28万人と言う報道もある)そして自殺率、自殺者とも多い日本の5カ国ではなかろうか。(アメリカも要注意であるが)共産圏から資本主義圏に入った中国、ロシア、未だに分断国家である韓国、軍部独裁国家からにわかに民主主義国家になった日本。インドは植民地からの独立の過程で内部に大きな亀裂を抱えたままである。戦後の政治社会諸制度の中に多くの矛盾を抱えたまま今を迎えた国々であり、インドを除くと日本と国境を接している。

 何故14年前に突然自殺が3万人を越えたのだろうか。そのご14年間も同じ傾向が続くのは何故なのだろうか。 日本の自殺をグラフで見れば、突然35%も増加しその趨勢が14年も続く国は他にない。特異な自殺大国なのだ。

 当時を振り返って見ると100万人単位の大量リストラが観測されるが、そのリストラの大波が引いても3万人の死は続いている。何故なのか。

 筆者がたどりついた結論は戦後の日本の政治、経済、社会の中に最初からビルトインされていた諸制度の歪みが、高成長とバブル終焉を経て一挙に吹き出したのではないかと言うことだった。たとえば労働基準法の36条は労使協定の形さえ整えば無制限に長時間労働に合法的に従事させることができるようになっている。国際労働基準であるILO条約は最初から批准していない。高度経済成長の陰に隠れて矛盾が大きく顕在化しなかっただけなのだ。今や勤労者の最大の休職原因は癌や生活習慣病でなく精神疾患であること、自殺者の内、毎年9000人が会社員であること、また無職者自殺増の最大要因が精神疾患・退職者であろう事、精神疾患休職者数は20万人を超えることは、何処まで知られているのだろうか。休職して傷病手当を受給する件数は、大企業の組合健保や公務員の共済組合ではそれぞれ52%、77%と増加している。中小企業の協会健保では逆に13%減っている。傷病手当も受給せず退職に追い込まれている勤労者が数十万いることになる。

協会健保から国保へ切り替える精神疾患患者の増大は、国保の一人あたり医療費支給額を

他の健保の2倍近くまで増大させている。システムのほころびは雇用、保険、年金、学校制度、原発依存まですべての社会生活に及ぶ。

今回の原子炉事故と同様。何が問題で、何処に責任があり、どうすればいいかと言う戦後処理を曖昧にしてきた付けを払わざるを得いまでに追い込まれてきた。

 肝心なことを曖昧にして経済成長だけを頼りにひた走ってきた日本は、その終焉にもかかわらず、相変わらず高成長の幻影を追い、売り上げが上がらないのは「根性が足りない」と考える。経営者や、管理職は右肩上がりの成長の経験しかない。成熟期をどう生きぬくかと考えようともしない。長時間労働とパワハラが横行している。ブラック企業でなければ生き残れないなら、みんながブラックになる。

 あれやこれやの諸矛盾の一つが自殺3万人という形で現れているのではないか。

  自殺率という普遍性のない尺度で日本に突出した自殺に関する問題はないと軽々しく言うべきではない。この14年間の自殺3万人は戦後日本のあり方を問うているのだ。成熟社会をどう築くかの課題を突きつけている。

 ロンドンオリンピックは成熟社会を目指すイギリスの方向を示した。産業革命発祥の地で、7つの海の支配者であったイギリスは、戦後大きな植民地をすべて手放し、今や慎ましい中堅国家となっている。イギリスに学ぶことは多いはずだ。幸いにしてイギリスも日本も世界でもっとも他殺者のすくない国だ。

 最後の養老さんに一言。自分の知らない分野ではもうすこし謙虚に振る舞うことはできないか。書評という形でこのような自己主張するのもどうかと思うのである。